2020年5月25日月曜日

コピペ 言葉を「虐待」してきた安倍首相 連発しても重みなし

日曜に想う

 本腰を入れたものより、戯れのようにやっていたものの方が後世に残ることがある。たとえば久保田万太郎は本業の戯曲や小説より、「余技」だと言っていた俳句によって今はよく知られる。〈湯豆腐やいのちのはてのうすあかり〉

 アベノミクスよりもアベノマスクの方が後々、人の記憶に残るように思う。片や長期政権の屋台骨をなす経済政策であり、もう一方は側近官僚の思いつきとされる。だが巷(ちまた)の秀逸なネーミングも相まって、冗談めいた奇策と、首相ご当人の着装の印象はなかなかシュールだ。

 むろん万太郎の句はすぐれているから名が残るのであり、不人気なマスクとは逆の話。ともあれ窮屈なマスク顔で、あるいはマスクを外して、安倍晋三首相は様々に語りかける。しかし言葉が心に響いたという話はあまり聞かない。

 言葉を弾丸にたとえるなら、信用は火薬だと言ったのは、作家の徳冨蘆花(ろか)だった。火薬がなければ弾は透(とお)らない、つまり言葉は届かない、と。数を頼んで言葉への横着を重ねてきた首相に、もはや十分な火薬があるとは思われない。弾も自前ではなく大抵は官僚の代筆である。


 丁寧、謙虚、真摯(しんし)、寄り添う、といった言葉をさんざん「虐待」してきたのはご承知のとおりだ。いま、危機のときに言葉が国民に届かず、ひいては指導力が足りないと不満を呼ぶ流れは、言葉に不誠実だった首相が、ここにきて言葉から逆襲されている図にも見えてくる。

     ◇

 1年前、元号は令和に替わった。選考の過程で、国書を典拠にしたかった安倍首相は「万葉集っていいね」と語ったという。令和の出典と同じ万葉集の巻五には「大和の国は……言霊(ことだま)の幸(さきわ)う国」という名高い詩句がある。言葉に宿るゆたかな力で栄える国、という意味だ。

 万葉の昔から時は流れて、政体は民主主義へと変遷した。民主政治は血統や腕力ではなく言葉で行われる。リーダーを任ずる者なら、自分の言葉を磨き上げる意欲を持ってしかるべきだろう。

 ところが首相には、言葉で合意をつくったり、人を動かそうとしたりする印象がない。数で押し、身内で仕切れば言葉はもはや大事ではなくなるのか。国会では早口の棒読みか不規則発言。スピーチなどは「国民の皆様」と慇懃(いんぎん)だが、中身は常套句(じょうとうく)の連結が目立ち、「言霊」を思わせる重み、深みは感じられない。

 作家の故・丸谷才一さんが14年前、安倍氏が最初に首相に就いたときに、新著「美しい国へ」の読後感を本紙で述べていた。「一体に言いはぐらかしの多い人で、そうしているうちに話が別のことに移る。これは言質を取られまいとする慎重さよりも、言うべきことが乏しいせいではないかと心配になった」

 辛口の批評だが、老練な作家の洞察力は、後に多くの人が気づく「首相の言葉の本質」をぴたりと言い当てている。

     ◇

 家ごもりの一日、版元から頂戴(ちょうだい)していた梶谷和恵さんの詩集を手に取った。巻頭に置かれた「朝やけ」と題する3行の短詩に、いきなり引き込まれた。

  どうしよう、

  泣けてきた。

  昨日は 続いている。

 明けゆく空を見て湧く感動とも、昨日をリセットできない屈託とも読める。

 後者と想像すれば、今の多くの人の心情を表しているかのようだ。コロナ禍の緊急事態宣言が解除されても翌日すべてが変わるわけではない。長期休校が続く子、収入の絶えた人、資金繰りに悩む経営者——誰もが事情を抱えながら閉塞(へいそく)感のなかで次の朝を迎えている。第2波への恐れも社会を陰らせている。

 そうした状況に向けて、首相は強い言葉をよく繰り返す。「躊躇(ちゅうちょ)なく」は連発ぎみだし、ほかにも「積極果断な」「間髪を入れず」「一気呵成(かせい)に」など色々ある。「力の言葉」を、「言葉の力」だと勘違いしてはいないか。

 川を渡る途中で馬を替えるな、は危機を乗り切る常道だ。しかし「コロナ後」という時代の創出は、新しいリーダーを早く選び出すかどうかの選択から始まろう。すべては民意にゆだねられる。(編集委員・福島申二)


2020年5月3日日曜日

コピペ 「コロナ自警団」はファシズムか 自粛要請が招いた不安

 新型コロナウイルスの感染拡大で、政府による外出自粛の要請が長引き、「自粛」に従わない人を責めるような風潮が強まっている。10年にわたって「ファシズムの体験学習」に取り組んできた甲南大学の田野大輔教授(50)は、こうした動きも、「ファシズム」と無関係ではないとみる。どういうことなのか。

拡大する写真・図版「ファシズムは気持ちいいからこそ危ないと知ってほしい」などと語る田野大輔教授=大阪市

たの・だいすけ 1970年生まれ。京都大学博士(文学)。専攻は歴史社会学、ドイツ現代史。2021年3月まで、ドイツベルリンで研究中。著書に「ファシズムの教室」「愛と欲望のナチズム」など。

 ——新型コロナウイルスの感染者が発生した大学に脅迫電話をかけたり、県外ナンバーの車に傷をつけたりする「コロナ自警団」のような人たちが現れています。なぜだと思いますか。

 「『自粛』要請に従っていないように見える人たちを非難する行動は、『権威への服従』がもたらす暴力の過激化という観点から説明できます。政府という大きな権威に従うことで、自らも小さな権力者となり、存分に力をふるうことに魅力を感じているのです。

 みんなで力を合わせて危機を乗り切ろうとしている時に、従っていない人は和を乱して勝手な行動をとっているように見えます。『コロナ自警団』のような人たちは、異端者に正義の鉄槌(てっつい)を下すことで、普段なら抑えている攻撃衝動を発散しているわけです。ファシズムの根本的な特徴を体現しているといえます」

ここから続き

 ——ファシズムですか。

 「そうです。私は、権威への服従と異端者の排除を通じた共同体形成の仕組みのことをファシズムと呼んでいます。こうした『自警団』的な行動は、今回の『コロナ禍』のように、社会に大きな不安が生じたときに生じやすい。公的な対策が不十分な中で、多くの人が自己防衛の必要にかられ、他人に過度の同調を要求するようになります。政府が『自粛』要請という形で、個々人に辛抱を強いることで問題を解決しようとしていたことが、結果的に人々の不安を増大させ、異端者への激しい非難を引き起こしたともいえるでしょう」

 ——ファシズムは、独裁的な権力のもとで生じるものなのでは。

感情揺さぶられ、いら立つ学生も

 「ナチスの研究でも、以前はそのような見方が一般的でした。しかし、この30年あまりの研究で、必ずしもそうではないということが明らかになってきました。人々は、上からの命令に無理やり従わされているわけではなく、自分の欲求を満たすため、進んでそれに従っているのです。ファシズムは、支持者にとって気持ちがいいもの、魅力的なものだったのではないでしょうか。学校でのいじめや新興宗教の洗脳、SNS上のヘイトスピーチなど、身近なところにもファシズムの仕組みがあると考えていいでしょう」

 ——2010年から、大学で「ファシズムの体験学習」という授業を実践されています。

 「授業では、教室でファシズムの成り立ちを学んだ後、約250人の受講生が白シャツとジーパンという『制服』を着て、グラウンドで屋外実習を行います。そこで、『ハイル、タノ!』の敬礼で指導者に忠誠を誓い、カップルを取り囲んで『リア充爆発しろ!』と糾弾します。

拡大する写真・図版ファシズムの体験学習で、統一された服を着て行進をする学生たち=神戸市の甲南大学、2018年6月14日、小川智撮影

 糾弾されるカップルは、あらかじめ仕込んだサクラの学生です。受講生たちが暴走しないように対策を講じていますし、耐えられないと感じた人は途中で抜けてもいいと伝えています」

 ——私も2018年に、授業に参加させてもらいました。自分の声が大勢の声と一体化してしまい、「何でも言えるな」という気持ちになりました。

 「指導者の命令に従って集団で行動していると、責任感がまひしてしまうのです。そして、集団から外れている異端者を排除したくなります。

 屋外実習の際、周囲のやじ馬の学生が乱入してきて、最前列で大きな声を出していたことに気づきましたか。

 毎回、集団の熱狂に感化されて、糾弾に加わる学生が現れます。機会に乗じて大騒ぎし、欲求を発散しているわけです。集団の力の怖さがよく表れています。

 さらに怖いのは、そんなやじ馬の行動に対して、受講生の間に『ふざけて加わってくる人が許せない』という感情が生まれることです。『制服を着ていないくせに入ってくるなという気持ちになった』という学生もいました。もちろん、そうした感情の意味もその後の授業で解説し、ファシズムの危険性に対する免疫をつけてもらうようにしています」

 ——授業で一番印象に残っていることは。

 「やじ馬の乱入に特に表れていますが、最初はネタとして始めたことでも、人々の感情を動員できてしまうということですね。この授業はナチス式敬礼をしたり、『リア充』を糾弾したりという、ネタ的な要素で成り立っています。それでも、受講生の中には感情を揺さぶられる人がいて、ちゃんとやらない人にいら立つといった規範の変化が生じます。

想像力が歯止めに

 今、ツイッターなどSNSを中心に、ネタ的なコミュニケーションが広がっています。最初は距離を取って冗談半分でやっていても、だんだんと気持ちよくなってきたり、達成感を感じ始めたりすることがあるわけです。誰かを排除することに深くコミットしていないつもりでも、安全ではありません」

 ——SNSでも、「コロナ自警団」のような書き込みが見られますね。どうすれば、ファシズム的な言動を避けられるでしょうか。

 「ファシズムの体験学習の受講生の中にも、糾弾されるカップル役の学生がかわいそうだと感じる人がけっこういます。相手も自分と変わらない学生であり、もしかしたら自分がその立場にいたかもしれない——という想像力が、糾弾をためらわせる歯止めになります。

 ナチスの時代にも、抽象的なユダヤ人には敵意を抱く一方、近所に住むユダヤ人には親しみを感じていた人が多くいました。具体的な血の通った人間に対しては、危害を加えることは困難です」

 ——ドイツでも、コロナを巡って特定の人たちを責めるような言動があるのでしょうか。

 「当初、一部でアジア人への差別的な言動が生じましたが、感染が拡大してからは、そうした動きはありませんね。早い段階で、政府が外出制限・休業補償などの対策を打ち出し、国民の支持を得たからでしょう。テレビや新聞の報道でも、感染を個人的な問題ととらえる視点が全くありません。個々人に責任を押し付けようとする日本とは対照的です。

 日本では、政府が『自粛』要請というあいまいな対策で危機をやり過ごそうとしたために、多くの人々の間で不安が高まっていますが、それが異端者をたたこうとする言動につながっているんだと思います。これを防ぐには、人々の不安を解消できるような明確な対策を打ち出すしかありません」(聞き手・杉原里美)

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 たの・だいすけ 1970年生まれ。京都大学博士(文学)。専攻は歴史社会学、ドイツ現代史。2021年3月まで、ドイツベルリンで研究中。著書に「ファシズムの教室」「愛と欲望のナチズム」など。