2022年9月16日金曜日

コピペ 安倍、菅、甘利、岸田…権力者たちが「言葉を破壊し続ける」この国の「悲惨な現実」 現代ビジネス

「暮し」を軽蔑する政治家たち

『暮しの手帖』初代編集長・花森安治が「暮しを軽蔑する人間は、そのことだけで、軽蔑に値するのである」という言葉を残している。この度刊行した『暮しの手帖』での連載をまとめた一冊『今日拾った言葉たち』の作業を進めながら、とにかくよく、この言葉を思い出した。新型コロナウイルス感染拡大の中で、この国の為政者は繰り返し私たちの「暮し」を軽蔑してきた。具体例はいくらでもあるが、二つほどあげてみる。

安倍晋三「私が責任を取ればいいというものではありません」(2020年4月7日)

菅義偉「私が目指す社会像、それは自助、共助、公助、そして絆であります。まずは自分でやってみる」(2020年9月16日)

最初の発言は、新型コロナウイルスについての記者会見で、イタリア人記者から「日本の対策がもし失敗だったら、どのように責任を取るのか?」と問われた際の答えである。これまで、政治は結果責任、と繰り返し述べてきた人が、いざ、結果が問われる局面になった途端、「責任を取ればいいというものではない」と逃げる準備を急いで始めていた。それは、不安を抱えている人たちをさらに不安にさせる言葉だった。

続く菅前首相の発言は、首相の就任会見でのこと。コロナ禍で公助のあり方が問われ続けたが、まずは自分でやってみて、公助に頼るのは最後にしてほしいと述べた。エンターテイメント業界に従事している人に生活不安を抱えている人が多いとの指摘を受けて、フリーランスとフリーターを混同しながら答えたこともあった。とことん、「暮し」が見えていない。そもそも、見ようとさえしていなかったのかもしれない。

前任の二人の首相との差別化を図るためにも、岸田文雄首相が自民党総裁選で胸の前に突き出しながら強調したのが「岸田ノート」。このように、とにかく自分は人の話を聞き、メモをして、それを政治に反映させていくのだと繰り返していた。

わずか1年ほど前のことだが、今では、「岸田ノート」には何も書かれていなかったのではないかと疑いたくなるほど、国民を見ず、後ろを振り返りながら党内のパワーバランスばかり気にしている。「暮し」は軽蔑されたままだ。

見晴らしが開けるような言葉

日々、生活しているとありとあらゆることが起こり、そして、流されていく。『暮しの手帖』での連載をまとめた『今日拾った言葉たち』では、そうならないよう、流れてくる言葉を受け止めて考えてみた。隔月で刊行される雑誌にどのような言葉を載せようかと、新聞を読み、テレビを見て、ラジオを聞いて、そして、インタビュー取材を通じて印象に残った言葉を書き留めながら、その時々に出会った「言葉たち」について考察を続けてきた。

本書の「まえがき」を、「暮しを軽蔑する人間は、言葉を大切にしない人間だ。それをひっくり返して、言葉を大切にする人間は、暮しを軽蔑しない人間だ、なんて言えるかもしれない。もう何年も、言葉を拾い続けながら、そう思い続けている」と締めくくった。

先述したような政治家の言葉も数多く取り上げているが、それ以外にも、個人的に自分を支える背もたれとなるような言葉もいくつも取り上げた。人間は言葉によって動くのだから、その言葉がだらしなくなっていくのが許せないし、食い止めるような言葉を集めれば、見晴らしも変わってくるはずなのだ。

ライターの長田杏奈氏が、私が担当しているラジオ番組のゲストコーナーに出演した時に、「社会問題わらしべ長者」という言葉を使っていた。ある社会問題について、「これは自分には関係ないことだ」と遮断してしまえばどんな社会問題も遠ざかってしまうが、そうではなく、この問題がなぜ起こるのかを考えていくと、散らばっているように見えた問題がつながっていく。

とりわけ、ジェンダー問題について関心を持った結果、社会への視野が広がったとして、こうした状況を指して「社会問題わらしべ長者」と述べた。本書にも収録したが、こうやってつなげていけばいいのだ。「それはあなたの問題でしょ」と誰かを切り捨てようとする動きへの抵抗にもなる。

「真摯に受け止め」「全力を尽くして」

今、目の前にある問題について、じっくり考えさせないようにする言葉が流れてくる。よく言われるように、「誤解を与えたとしたら申し訳ございません」という謝罪は、あたかも、自分的には問題はなかったんですけど、受け止める側の無理解でこうなりましたと言いたげだし、「以降はこのようなことがないように気をつけてまいります」という言い分は、今起きている問題を追及されるのを回避する言い方である。

安倍元首相の国葬実施が世論の反発を招いているが、岸田首相は8月31日の会見で、「御意見、御批判を真摯に受け止め、正面からお答えする責任があります。政権の初心に帰って、丁寧な説明に全力を尽くしてまいります」と述べた。短い言葉の中に、「真摯に受け止め」「初心に帰って」「全力を尽くして」が入っている。これ、政治家がその場限りでなんとか乗り越えようとする時に頻出するワードばかりだ。

このところ、政治家が言葉を壊し続けてきたが、岸田首相は、壊れた後に残った、政治家にとって使い勝手のいい言葉ばかりを使っている。「岸田カラー」はいつまでも見えないが、残った絵の具を使っているのだから、自分のカラーは作り出せるはずがない。無論、言葉も同じである。

旧統一教会と、自民党を中心とした政治家とのかかわりが問題視されているが、いつものように、いい加減に言い訳しておけば逃げられるだろうと企む政治家から、あまりにも雑な見解が流れてくる。

たとえば、山際大志郎経済再生担当大臣。自身の秘書の中に旧統一教会の信者がいたのではないかとの報道を受け、再度調査をするかと記者会見で問われ、「確認できないのは調査をした上で、確認ができないと申し上げているので、同じことを調査しても確認できないという結果しか出ないんじゃないでしょうか」と答えている。

何度か繰り返して読んでみるが、ちっとも意味がわからない。山際大臣はいつも真顔だ。真顔でとんでもないことを言う。それ、説明になっていないですよ、と返しても、また真顔で奇天烈な見解を並べる。なぜこうなのか。理由は明確である。これまでも、先輩たちがそれで逃げてきたからである。

「記憶を確認する」

本書『今日拾った言葉たち』で用いた政治家の言葉に次のようなものがある。記憶している人はいるだろうか。

「記憶を確認して、1週間以内にはお話しできると思います」

これは、大臣室や地元事務所で建設会社などから現金を受け取りながら、政治資金収支報告書に記載していなかった金銭授受問題が発覚、経済再生担当大臣を辞任した甘利明氏が、辞任6日前に述べていた言葉である。

で、「記憶を確認する」ってなんだろう。記憶って、確かにちょっと時間をかけて辿るものもあるけれど、それは「えっと、ここのお店に来たことってあったっけな?」と振り返るくらいのもので、金銭授受について、何日もかけて記憶を確認するって一体どういうことなのだろう。

どういうことでもないのだ。トンチンカンなことを言っても、主要メディアが素直に「甘利大臣は、『記憶を確認する』と述べ、明言を避けました」などと報じてくれるのを知っているのだ。「この人、『記憶を確認する』とか、とてもバカらしいことを言ってますが、なんで直ちに辞めないのでしょうか」が無難な原稿だと思うのだが、そうはならない。

こんなことが繰り返された結果、言葉が壊れ、「暮し」が軽蔑される。自己責任社会が強化され、「まずは自分でやってみる」と国のトップが言ってしまう。問題視されている事案への説明を求めても、瓦礫のような言葉をつなぎ合わせて、「真摯に受け止め、初心に帰って、丁寧な説明に全力を尽くしてまいります」と返ってくる。

とても困る。でも、そればかりが繰り返されるので、うっかり、この状態に慣れてしまう。順応してしまう。間もなく開かれる安倍元首相の国葬にしても、彼が深くかかわっていた旧統一教会問題についても、「いつまで指摘しているんだ」と、指摘するほうをなじるような声が少しずつ出てきている。これぞ、いつもの流れである。言葉を壊した人たちは、ちゃんと語らなければ、物事が曖昧なまま放置されることを経験則として知っている。だから、真顔で壊れた言葉を使う。

これだけ壊れてしまった言葉をどうすれば立て直せるのだろう。劇的な処方箋は存在しない。それぞれ、指摘し続けるしかない。あまりにつまらない結論である。幸いにも世の中には豊かな言葉に溢れていて、そういう言葉を大切に摘むと、社会への見晴らしを保てる。

本書をまとめる作業をしながら、言葉を軽視する流れを断ち切るためには、言葉を探しながら受け止めていくしかないとの考えに至った。これまたつまらない結論だけど、結論がキャッチーである必要はないのだし、流行りの「論破」的な方面に乗っかって、斬新な見解を提示する必要もない。

言葉を軽蔑する人間は、そのことだけで、軽蔑に値する、と思う。「確認できないのは調査をした上で、確認ができないと申し上げているので、同じことを調査しても確認できないという結果しか出ないんじゃないでしょうか」なんて言う人には、「早く辞めろ」だけでいい。壊れた言葉を使う彼らは、私たちの生活を舐めているのだ。

 武田砂鉄

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