2021年8月3日火曜日

コピペ 「スポーツには人命を救う力はない」医師が五輪礼賛ムードに抱く底知れぬ怒り

東京五輪が開催される中、全国では1日あたりの感染者数が1万人を超えるなど、新型コロナウイルスの感染が拡大している。医師の木村知さんは「医療現場で働く身からすると、五輪の熱狂が異次元の世界に見える。五輪に関する世論の手のひら返しが、戦時下と重なり恐怖さえ感じる」という——。

開会後に急速に変わった空気

とうとうコロナ禍のなか東京五輪が開催されてしまった。

新型コロナ感染拡大が収まらない状況で開催中止を求める声は高まり、スポンサー企業でさえも五輪から距離を置く姿勢を見せ始めた。それにもかかわらず、開催は文字通り強行されてしまった。

その後も感染者の急増は止まらない。都内での新規感染者はついに3000人を超え、今や過去最悪の状況となった。このままではこの傾向は収まるどころかいっそう拡大、医療崩壊ももう避けられないだろう。

開催前の5月22日と23日に東京新聞などが行った世論調査では、中止すべきという意見は60%超、多数派であった。しかし開会式が開催され、じっさいに競技が始まり日本人選手が金メダルを獲得し始めると、その空気は急速に変わり始めた。

NHKは総合、Eテレともに終日五輪一色。民放でも今まで開催に懐疑的な意見を流していた番組ですら、手のひらを返すように日本人選手の活躍ぶりを歓喜と興奮にあふれる声で大々的に取り上げるようになったのだ。

未曾有の感染急拡大の一方で、反対の声を無視して開催に突き進んだ政府、それに無批判に迎合して五輪礼賛番組を流し始めるメディア、さらにそれらの番組に嬉々としている人々の声を聞くと、ウイルスそのものへの恐怖にも増して群衆心理への恐怖を感じずにはいられない。

感染者急増の中の五輪開催こそ緊急事態だ

「ここまで来たのだから、いまさら引き返せない。どうせやるからには小難しいことなど言わずに楽しもうではないか」

「ここで中止してしまったら選手たちが可哀想。賛否両論あったけれど、もうやると決まったのだから皆で選手を応援しようよ」

「心配だったけど、開会式を見て気が変わった。だんだんワクワクしてきた。やっぱり開催して良かったんじゃないかな」

「私は五輪反対派。ネット署名までしていたけど、いざ日本人選手のメダルラッシュ見てしまうとやっぱり感動! 選手は悪くない。もうテレビから目が離せない。選手たちを応援します!」

まさに政権の思惑どおり。ネットやテレビではこのような意見をたびたび見かけた。こうなれば、延期や中止の世論は五輪礼賛へと一気に雪崩を打つことになる。そして「この期に及んでまだ中止を叫んでいる人」は一転、"ややこしい人"とのレッテルが貼られて少数派になってゆく。菅義偉政権が確信を持って期待していたのは、まさにこの現象であろう。

NHKが先頭に立って、日本人選手の活躍を嬉々として伝えた直後のニュースで感染者急増を報じ、またそのニュースが終われば何事もなかったように熱狂中継に戻る、というまさに絵に描いたようなディストピアを体現しているが、この極めて奇異な現象を、今や地上波で公然と批判する者は皆無だ。これぞ危機的緊急事態ではないか。

医師からは五輪の熱狂が異次元の世界に見える

私は診療所の医師であるし、主たる業務は訪問診療だから、発熱外来も担当しているとはいえ新型コロナ感染者の治療全般を担っているわけではない。しかし自分が診察した患者さんからの陽性確認を今まで経験したことのないハイペースで次から次へと実体験している私にしてみれば、開会式後から手のひらを返したように五輪礼賛ムード一色となったテレビ番組を観るにつけ、まったく異次元の世界に来てしまった感覚に陥らざるを得ないのである。

無邪気に熱狂している人たちにとってコロナは、じっさいに自身が感染を経験したわけでもなく感染した人に接したこともなければ、現実でない異次元の出来事に思えてしまうのかもしれない。それならば合点もいく。

そもそも今回の五輪招致は、国民の共感を喚起するために復興五輪という大義名分が与えられたが、その本質は東日本大震災によって引き起こされた原発事故を覆い隠すためのものと言っても過言ではない。事故は発生から10年たった今なお収束のメドすらつかず、故郷を追われた人々もいまだに数多く取り残されている。

しかし五輪を開催にこぎつけ、日本人選手の活躍によって多くのメダルが獲得できれば、これら政府にとって不都合な負の記憶は多くの国民の脳裏から消し去ることが可能となる。じっさい、アンダーコントロールという虚偽の言葉を公然と安倍晋三前首相が用いても、招致が成功したことで、この明らかな虚偽がまるで真実であるかのようなお墨付きを国際的にも得たことになってしまった。

感染者3000人突破でも中止の考えなし

「復興五輪」がいつの間にか姿を消し、次には「コロナに打ち勝った証し」が、そして打ち勝てないことが明白になると、今度は「コロナと闘う姿」や「困難を乗り越えて成功させる」というスピリチュアルな世界に日本政府は迷入していくことになった。

政府は批判の声をかき消すように"安全安心"を必死にアピールし続けるが、その根拠を問われても頑なに明示しようとしない。「開催断念するのはどのような事態に陥った場合か」という問いに対しても不誠実な態度を貫きとおし、開催に突入した。その結果が今である。

7月28日、ついに都内での新規感染者数が初めて3000人を突破した。政府はこの感染急拡大を見ても、五輪との因果関係は証明できないとして中止する根拠とはならないとの見解を示すに違いない。じっさい菅首相は前日のぶら下がり会見において、感染急拡大の現状にあっても人流は減っているなどとして中止する考えのないことを明言。3000人突破の報を受けても記者の質問を無視して素通りした。

公明党の石井啓一幹事長は「現在の感染者数は2週間前を反映しているのだから開会とは関係ない」と発言し、IOCのマーク・アダムス広報部長も「パラレルワールドみたいなものだ」として五輪と感染再拡大は無関係との認識を強調した。

五輪だけが原因であると特定する必要はない

Twitterでは #オリンピックは関係ない というタグまで現れ、むしろ多くの人が自宅にこもってテレビで観戦することで人流を減らすことができるなどという奇妙な五輪擁護論まで出てくるようになってきた。

もちろん感染拡大にはさまざまな因子が絡みあうから、五輪という単一の因子で感染急拡大の原因を説明することはできないだろう。しかし冷静に考えれば、五輪だけが原因であると特定する必要は一切ないのである。

感染者急増と医療資源枯渇という「事実」と、国内外から多数の人を首都圏に呼び込む世界的イベントが行われている「事実」、これら2つの厳然たる「事実」が同時に首都圏に併存しているという「事実」さえあれば十分なのだ。

そしてこの2つの事実が併存することによって、感染制御と医療が五輪開催によって妨害されている「事実」も生じる。この事実の存在こそが、私も含め多くの人が開催中止を訴えてきた理由である。

では五輪開催は、医療と感染制御にいかなる妨げをもたらしているのだろうか。

政府の言動の矛盾で国民の不満が爆発した

すでに多くの識者の指摘もあるが、政府の言動の矛盾がその最たるものと言えるだろう。緊急事態宣言を出し不要不急の外出をするなと国民の行動制限をしておきながら、国内外から多くの人を呼び込み、あげくに五輪関係者の行動制限は形ばかりのものとしていた。飲食店での酒類提供を制限させておきながら、競技会場の中ではアルコールを提供しようとしていた。これらの「五輪は特別」というメッセージは少なからぬ人たちに「五輪がよくて、なぜ私たちは我慢しなければならないのか」という気持ちを芽生えさせた。

じっさい五輪のために作られた7月22日からの4連休、都内の人出は緊急事態宣言がなかった去年7月の連休よりも大幅に増加した。これは国民の我慢の限界が、政府の矛盾に満ちたメッセージによって爆発したものと言えるだろう。

これらについて「政府は誤ったメッセージを出してしまった」と批判する声があるが、私の見方は少し違う。政府が感染拡大を真剣に制御しようとしていたにもかかわらず、その本心と異なったメッセージを出してしまったならその通りだが、これまで政府が国民に示し続けてきた言動は、それとはまったく異なる。私に言わせれば、これらは「誤ったメッセージ」ではなく「感染制御よりなにより五輪開催が最優先である」との政府の「本心からのメッセージ」だ。

「熱中症」の観点からも五輪開催には疑問が残っていた

実は私はコロナ禍以前から東京五輪開催には反対だった。理由は猛暑だ。詳細については2019年に上梓した拙著『病気は社会が引き起こす インフルエンザ大流行のワケ』(角川新書)で論じているが、新型コロナの流行がなくとも真夏の東京でのスポーツイベントはあまりにも危険だ。そもそも開催してはならないのだ。すでに熱中症による被害者が五輪選手に出始めているが、被害者は選手にとどまらない。

"猛暑下でも五輪開催できる"という誤ったメッセージによって、子どもたちも危険にさらされるのだ。今は夏休みのはずだが、通勤電車にはあきらかに運動部員とみられる生徒たちが大きなスポーツバッグを背負って乗ってくる。

本来、熱中症の危険がある状況での屋外運動は禁止だ。しかし五輪が開催されてしまっている現状では、行政としても猛暑の危険を大々的にアナウンスできない。「五輪はできるのに、なぜ部活はダメなのか」いや「部活が危険なら、五輪も危険ではないのか」という声が高まれば、せっかくの五輪フィーバーに水を差すことになってしまうからだ。

猛暑による危険を国として認めてしまえば「晴れる日が多く、かつ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候」との虚偽を用いて招致したことを改めて全世界に知らしめてしまうことにもなる。

五輪が医療現場に余計な負荷をかけているという事実

当然ながらこの状況で部活を行うことは感染にも大きなリスクだ。じっさい高校生の部活でクラスターも生じている。今回の五輪開催は炎天下でのスポーツ全般を正当化し、それによって子どもたちを熱中症の危険にさらすとともに、新型コロナ感染リスクさえも負わせている。これらは五輪開催さえしなければ防げたはずだ。

新型コロナの急拡大によって医療体制が逼迫し始めてきた状況で、行政は医療機関に対してコロナ病床の拡充のため通常診療の縮小や不急の予定手術の延期を検討するよう要請している。その首都圏には五輪が数万人の余計な人口増加をもたらしている。そしてこれらによって増えた人たちにも新型コロナに限定しない医療需要が生じ得る。熱中症と新型コロナでただでさえ逼迫する医療現場に、さらに余計な負荷をかけているのが東京五輪なのだ。

#オリンピックは関係ない という人たちの思考からは、こういう医療提供体制への視点と配慮が完全に欠落している。開催されたことと感染急拡大は無関係だとしきりに強調するが、そもそもその因果関係など問題ではない。五輪開催が感染制御と医療提供体制の足を引っ張り妨害していることが最も重要な問題なのだ。

五輪と戦争が孕んでいる「装置」

それに引き換え、日本人選手が金メダルを多数獲得しようが、素晴らしいプレーが感動を与えようが、逆境を跳ねのけて出場した選手が希望をもたらそうが、これらの事象には私たちが現在直面している新型コロナ感染急拡大を抑止する能力も効果も一切ない。人命を救うことももちろんできない。「スポーツの力」など、今の状況ではまったく無力なのだ。

「ここまで来たのだから……」「ここで中止してしまったら……」という気持ちは、ひとつの感情としては分からなくもない。しかしその感情を国民の総意であるかのように位置づけることは非常に危険だ。先の戦争、私は当事者ではない。しかし歴史を学べば知ることはできる。何度も踏み止まったり引き返すことができた時点があったにもかかわらず、批判や懸念の声はかき消され、結果、わが国は多くの尊い人命を失った。

「私、本当は今回の東京五輪には反対だったんです。でもいざ始まったら連日のメダルラッシュに胸が熱くなった。選手たちを応援しよう!」と開会式後に言い出した人と、かつて戦時下で「私、本当は今回の戦争には反対だったんです。でもいざ始まったら連戦連勝に胸が熱くなった。兵隊さんに感謝しよう!」と手のひら返しをしたといわれる人に、私はまったく同じメンタリティを見る。

当然ながら五輪と戦争は別ものだ。同列に語るべきではないとの声も知っている。しかしそのどちらも国の威信や愛国心という、統治者にとって国民をコントロールするにあたって極めて有用な「装置」をその根底に孕んでいる。

「敗戦の日」を目前にして感じる恐怖

この危機的状況で五輪さえも中止できない国が、もし戦争へと向かう状況に置かれた場合に引き返すことはできるのだろうか。戦争となれば人が死ぬ。スポーツの負け試合とは比較にならない次元が違う「屈辱」に、国民はいとも容易く感情的になるだろう。「ここで引けるか、仕返しだ」という世論は雪崩をうって開戦慎重論を踏み潰し、よりいっそうの泥沼にハマっていく……。五輪すら中止できない国においては容易に起こり得ることではなかろうか。

「選手は悪くない」「選手を批判するのは違う」との言葉もよく聞かれる。たしかに選手には五輪開催の適否を決める権利も手段もないかもしれない。しかし選手もアスリートである以前に、ひとりの人格ある人間である。意思表示を行う権利も手段も有している。猛暑やコロナ禍の中での五輪開催について、不安や不満をひとりの人間として発言することはできたはずだ。

今からでも発言してもいいはずだ。心の中にそうした不安や不満があるにもかかわらず、それを自由に発言することのできない「空気」が彼らを覆っているとするならば、それは戦時下となんら変わらない。

「やると決まったからには、自分のできることを全力でやるだけです。日の丸を背負って」という選手たちの言葉、それを無批判に絶賛する声が、開会式というほんの数時間のイベントを契機として急増してしまう群衆のメンタリティ。「敗戦の日」を目前にして、こうした選手たちの姿を出征兵士の姿に重ねあわせて底知れぬ恐怖を感じる私は、妄想におかされた、ややこしすぎる人間だろうか。

---------- 木村 知(きむら・とも) 医師 医学博士、2級ファイナンシャル・プランニング技能士。1968年、カナダ生まれ。2004年まで外科医として大学病院等に勤務後、大学組織を離れ、総合診療、在宅医療に従事。診療のかたわら、医療者ならではの視点で、時事・政治問題などについて論考を発信している。ウェブマガジンfoomiiで「ツイートDr.きむらともの時事放言」を連載中。著書に『医者とラーメン屋「本当に満足できる病院」の新常識』(文芸社)、『病気は社会が引き起こす——インフルエンザ大流行のワケ』(角川新書)がある。 ----------


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